第七話

 突然、目の前から消えた――正確には、穴に落ちたソロを見て、その後ろにいたエイトは驚いた。
ほぼ反射的に、彼を救おうと一歩を踏み出す。その瞬間、彼の足元からも床が消えた。

「あっ」

 やってしまった、と思った時には遅く、エイトの身体は、ソロと同様に下へと落ちていく。
何度か壁に叩きつけられた後、地面に投げ出された。受け身はとれたので、ダメージは少なかったが。
エイトは服についた土埃を払いつつ、立ち上がる。

「ソロさん? リュカさん?」

 いくら呼びかけても返事はない。天井を見上げれば、自分が通った穴は既に消え失せていた。
周りにはリュカの姿だけではなく、同じく穴に落ちたソロの姿もない。
ソロとは別の場所に落ちてきたのだろうか。早く合流しなければ。
そう思いながら、エイトはゆっくりと歩き始める。
幸い、洞窟の壁には所々明かりがついており、視界は良好だ。

 さすがに、いつ魔物が襲ってくるか分からないところで、二人の名前を呼び続けるわけにはいかない。
エイトは背中から槍を引き抜き、いつでも戦えるようにしながらも慎重に歩きだした。
しとしと、と何処かから水音が聞こえる。それ以外に物音は一切なく、人の気配もない。
どこまでいっても同じ景色。それは、時間の感覚までもを狂わせた。

 歩き始めて数十分……数時間……あるいは、数分のことだったかもしれない。
エイトはようやく、洞窟の奥に揺らめく人影を見つけた。
ほっと胸を撫で下ろすと、人影に向かって歩みよる。

「あ……」

 その人影の正体をみた瞬間、エイトから安堵の表情が消えた。
そこにいたのは、長身の男だった。エイトが思わずもらした声に気付いたのか、彼は振り返る。
長い金髪がさらりと揺れ、切れ長の目元が現れる。
次いで、その胸元に大きく描かれたマークが目に入った。

「つっ!」

 その瞬間、頭の中に手を入れて、ぐちゃぐちゃに掻き混ぜられているような、ひどい痛みが走った。
エイトは目の前にいる男を知っていた。しかし、誰かは分からない。どこで見たかも分からない。
痛みで鈍った頭の中で繰り返す。この人は誰? この人は誰? この人は――

「思い出せ」

 エイトはハッと顔を上げた。その時、エイトは初めてその男の顔を見た。
能面のような何の感情も見えない顔だ。それを見て、彼は気付く。

「……夢だ。僕は貴方を夢で見た」
「思い出せ」

 男は、言葉を繰り返した。まるで、それしか言葉を知らないように。
エイトは夢の内容を思い出そうとしたが、そうすると、頭がひどく傷んだ。
まるで、何かが思い出すのを妨害しているかのように。

「貴方は、確か、夢で――何か――いや――」

 ぐるぐると頭に映像が駆け廻る。けれど、それを記憶に留めることは出来ない。
思い出せない。思い出したくない。思い出してはいけない。思い出しては……思い――
頭の痛みは限界まで到達しようとしていた。地面にしゃがみこみ、頭を抱える。

「バギクロス!」

 エイトの頭上を風が通り過ぎ、悲鳴が聞こえた。その瞬間、先ほどまでの痛みが嘘のように消え失せる。
顔を上げれば、男がいた場所に一体の魔物が倒れていた。
直後、風のようにスライムに乗った騎士が現れ、その魔物にトドメの一撃を与える。
じわりと地面に広がる赤。呆然としているエイトの頬に、何か温かいものが触れた。

「ゲレゲレ……?」
「ガウッ」

 心配そうに擦り寄るゲレゲレを見て、エイトは自然と笑みを浮かべていた。
その触り心地の良い毛並みを撫でてやりながら、ふう、と息を吐き出す。頭痛は治まっていた。
そうしていると、足音が近づき上から声がかかる。

「大丈夫かい?」
「ええ、平気です」

 顔を上げて、にこりと微笑み無事であることを伝える。
すると、リュカは安堵して、エイトへ手を差し伸べる。
エイトは素直にその手を掴み、立ち上がった。

「擬態をする魔物がいるようだね。早く彼とも合流しよう」
「ええ、そうですね……」

 リュカが、魔物が擬態していた者について追及しなかったのは幸いだった。
これ以上、あの男の正体について考えたくはなかったから。
エイトは頭を切り替え、リュカと共に歩み始める。

――それから、彼らが魔物に出くわすことはなかった。
いくつかの階段を下り、通路を右へ左へと曲がっていく。
途中にあった小部屋も丹念に調べていったが、ソロの姿はない。
そうして、もうそろそろ最深部へ辿りつくだろうか、という頃になって、リュカは口を開く。

「彼、いないね。一度、戻った方が良いかな」
「いえ、行けるところまで行ってみましょう。引き返すのはそれからでも――」

 そこで、エイトは言葉を切り、立ち止まる。
視線を彷徨わせ、眉を寄せながら耳をすましていた。

「今、ソロさんの声が聞こえませんでした?」
「そう? ゲレゲレ、きみは聞こえた?」
「ガウガウッ」

 ゲレゲレは頷き、ある方向へ駆けだす。その後にエイト、リュカ、ピエールが続く。
そして、ある小部屋の前まで来たとき、ゲレゲレは立ち止まった。
小部屋の周囲にはむせかえるような血の臭いが漂っている。
エイトは嫌な予感がし、その小部屋の中を覗いて――息をのんだ。

「黙れ」

 そこには、少女に馬乗りになったソロがいた。
剣先で何度も何度も少女の顔を切り裂き、突き刺している。
凄惨で、グロテスクな光景。多少の流血沙汰に慣れているエイトも、思わず口を手で覆った。
夥しい血の海から、か細い声が聞こえる。

「ソ……ソロ……痛いわ……も、やめ……」

 ざくり、と少女の喉元に剣が突き刺さる。

「黙れ」

 肉塊が、ニィ、と気味の悪い笑みを浮かべる。それは最早少女のそれではなかった。
そして、声帯は既に切り裂かれているにも関わらず、はっきりとした口調で話し始める。

「ねえ、聞きたい? 貴方を地下に残した後、私がどんな目にあったか」
「黙れ」

 スッとソロの頬に伸ばされた白く細い腕。ソロはその腕を掴み、あっさりとへし折った。
本来なら曲がらない方向に曲がった少女の腕。しかし、痛みを感じている様子はなく、平然と彼女は話を続ける。

「私は魔物に囲まれて、まず剣を持つ腕を切り落とされたわ。そして、あの鋭い爪や大きな牙で――」
「黙れ!」

 剣は一気にシンシアの頭を貫いた。
彼女は二、三度大きく身体を痙攣させた後、動かなくなる。
しかし、ソロはそれでもなお、シンシアの頭をめちゃくちゃに切り刻んだ。
執根深く、執拗に、その顔の存在を許さないとでもいうように。

「黙れッッ!!」

大きく振り下ろされた剣の進路を、唐突に杖が塞ぐ。
ソロがハッと顔を上げると、リュカと目が合った。
その瞬間、怒りでいっぱいだったソロの頭が、すっと冷えていく。

「……もう、死んでいるよ」

 そう言われ、ソロは再び視線を落とす。
そこにはもう少女の姿はなく、ただ頭部を刻まれた魔物の屍骸が残るのみだった。
ようやく我に返ったソロは、小さく息を吐いて、立ち上がる。

「すまん、頭に血が上ってた」
「いや、誰にでもあることさ。気にしないで」

 そう笑ってみせるリュカとは対照的に、少し青い顔をしたエイトがソロに駆け寄る。

「あの、大丈夫ですか? 怪我とかしてませんか?」
「ああ、大丈夫。全部返り血だ」

 赤く染まった服を見てため息をつき、頬についた返り血を手の甲で拭う。
それを見てエイトは安堵したような、心配しているような、複雑な表情を浮かべた。

「あそこを進めば、もうすぐ最深部だ。そこにここの主か……出口があるだろう。行こう」

 ソロはそんなエイトに構わず、剣を鞘にしまって小部屋を出て行く。
リュカもその後に続き、ゲレゲレやピエールと共に、歩を進める。

 エイトも彼らの後を追って小部屋を出ようとして、ちらりと振り返った。
血の海を横たわる、魔物の屍骸。あれが直前までなっていた少女の姿、それを切り刻むソロの悲痛な顔――
そこに、ソロが魔物を嫌う原因の一端を感じ、エイトはため息をつく。
魔物好きになれ、とは言わないまでも、こちらに好意的な魔物に対しての態度は改善してほしい。
そんなささやかな願いは、思っていたより難しそうだった。

「おい、置いていくぞ」
「あ、待ってください。今行きます」

 エイトは魔物の屍骸に背を向け、二人の後を追った。

この場所の構造を知っているというソロの案内通りに最深部へと進んでいく。

しばらく歩いている内に、完全に殺気立っていたソロは落ち着きを取り戻した。


「この階段を下りた先が、洞窟の最深部だ」

 先頭を歩いていたソロが、下り階段の前で足を止めた。
階段はそれまでのと同じ石造りで、壁にはぼんやりランプの明かりが灯っている。

「この先に何もなければ、来た道を戻るしかないな」
「……ここまで来て、収穫ゼロは勘弁してほしいですね」
「何にせよ、僕たちは進むしかない。行こう」

 リュカに促され、先頭のソロが階段を下り始めた。
壁にかかったランプのおかげで、視界はそれほど悪くない。
階段を踏み外すようなこともなく、彼らはゆっくりと歩を進めた。

「……俺の知っている構造と違うな」

 階段を下り切った彼らの前に広がっていたのは、石造りの広間だった。
ギガンテスやトロールといった巨体の魔物が二桁は入りそうなほどの広さがある。
部屋の中央に大きな台座があること以外、特に目立ったものはなかった。
出口どころか、魔物の気配すらない。

「行き止まり、ですね。引き返します?」
「いや、何かギミックがないか調べてみてからでも遅くはないよ」
「それもそうですね、では――」

「……エイト?」

 不意に、女の声が広間に響き渡った。それと同時に、台座の上で小さな人影が動く。
反射的に臨戦態勢を取る面々。しかしエイトは武器に手を伸ばさず、台座の上の人影を驚愕の表情で見ていた。

「ゼ、ゼシカ!? どうしてこんなところに?」
「私もよく分からないの。変な渦に巻き込まれたと思ったらこんなところにいて」

 人影――ゼシカは、台座の上に座り込んだまま、そう言った。
ソロは気を抜くことなく、ゼシカに視線を固定したままエイトに尋ねる。

「知り合いか?」
「ええ、暗黒神を倒す時に共に戦った仲間です」

 エイトの言葉を聞き、一同は武器から手を離した。
ただ、ゲレゲレだけは体勢を低くしたまま唸っていたが。

「ねえ、エイト。薬草持ってない? 魔物に襲われたときに怪我をしちゃって」
「分かった、ちょっと待ってて!」

 エイトは薬草を取り出しながら、台座の上へと続く階段を上る。
ソロは腑に落ちない顔で、その様子を眺めていた。

「魔物臭くはないが、なんか妙な雰囲気だな」
「そうだね。ゲレゲレが警戒を続けているということは、罠かもしれない」
「呼び戻すか。……おい! エイト、一旦こっちに戻れ!」

 ソロがそう呼びかけた時、すでにエイトは台座の頂上まで上りきっていた。
ゼシカは床に座り込み、痛みを耐えるような表情を浮かべている。
しかし、エイトの目から見える範囲には目立った外傷はなかった。
エイトはひどい怪我を負ったわけではないことに安堵し、背後の呼びかけに答える。

「ちょっと待ってください、薬草を渡してから戻ります!……ね、ゼシカ。どこが傷むの?」

 エイトはしゃがんでゼシカと目線を合わせながら尋ねた。
ゼシカは少し躊躇うような素振りをしてから、伏し目がちに答える。

「……胸が痛むの」
「…………え」

 エイトは反射的にゼシカの胸へ視線を向け、すぐに逸らした。
ゼシカの今の格好は村で着ている普段着ではなく、旅で好んで着ていた、あの露出の多い服だ。
エイトにとっては見慣れたものだが、改めてまじまじと見ることには抵抗があったのだろう。

「そ、そっか。じゃあ、薬草を渡すから」

 そう言いつつエイトは薬草を差し出す。
ゼシカはエイトの方に手を伸ばしたが、薬草ではなくエイトの手首を掴んだ。
そしてそのまま強く腕を引っ張られ、エイトの手から薬草が落ちる。

「ここが痛いの……」

 ふに、と手の平に柔らかい感触。
エイトは一瞬呆けたような顔をした後、頬を真っ赤に染めた。
ゼシカの胸の上に、エイトの手が置かれている。
状況を理解したエイトは手を引こうとするが、ゼシカはエイトの腕を掴んだまま離さない。

「ちょ、ちょっと待って、何……」
「すごく痛いの……痛くて……切なくて」

 ゼシカは顔を伏せ、ぽつりぽつりと呟く。
エイトはふと、彼女の肩が小さく震えているのに気づいた。
激しい戦いを乗り越えてきたとはいえ、彼女は女性だ。
こんなところに一人でいるのは、彼女も心細かったのだろう。
そう解釈したエイトは、震える肩に自身の空いている手をそっと置いた。

「落ち着いて、ゼシカ。もう大丈夫だから、ね?」
「うん、ありがとう……けど、私、私ね」

 ゼシカはそっと顔を上げて、にこりと微笑んだ。
エイトはその表情を見て安堵の表情を――浮かべる前に、目を見開いた。
いつの間にか、ゼシカの手が赤く輝いている。
その手へ向かって、魔力が渦を巻くように収束していく。
彼女は自然な動作で魔力を纏った手の平を、エイトの胸に押し当てた。

「……まさか」

 ゼシカが一体何をしようとしているのか、エイトにはわかってしまった。
長い旅を、多くの戦いを、共に乗り越えてきた仲間だからこそわかる行動の真意。
しかし、もう遅かった。彼女の手に集められた強大な魔力の塊、それを解き放つ言葉を赤い唇が紡ぐ。

「メラゾーマ」

 直後、エイトの胸を紅蓮の炎が貫いた。


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