ロトの手記


 静かな夜だった。月明かりに照らされた海を、一隻の船がゆっくりと進んでいる。その甲板の上に、一人の女性が佇んでいた。肩まで伸びた赤い髪が、潮風で頬にかかる。それを鬱陶しそうに払いのけながら、彼女は熱心に手帳へ何かを書き込んでいた。あまりにも熱心過ぎて、背後に迫る影にも気づかないほどに。

 

「見張り中に何を書いているんだ、サマンサ?」

 

 突然アルトの甘い声で尋ねられ、ビクッと女性の肩が跳ねる。そして、彼女はぎこちない動きで振り返った。そこにいたのは、精悍な顔つきをした若者。少年から大人になろうという年頃だろうか。月明かりの下で見る彼の姿は、思わず感嘆の溜息をつくほど美しかった。サマンサ、と呼ばれた女性も一瞬見惚れたようだったが、すぐに我に返ると、手帳を閉じる。

 

「ただの手記ですよ、マリア」

 

 マリア。彼女は若者のことをそう呼んだ。そう、彼――否、彼女は女性だったのだ。マリアは形の良い唇に苦笑を浮かべながら、サマンサの隣に立った。ぐるりと周辺の海の様子を見て異常がないことを確認すると、サマンサの方へ顔を向ける。

 

「私は構わないが、ハンに見つからないようにな」

 

 仲間である武道家の名を引き合いに出し「また怒られるぞ」と言うと、サマンサはふんと鼻をならした。気の強そうな瞳が、爛々と輝いている。

 

「あんな筋肉ダルマに怒られたって、痛くも痒くもありませんわ」
「だってさ、ハン」

 

 再びサマンサの肩が跳ね、勢いよく振り返る。が、そこには無人の甲板があるだけだった。ハメられた、と気づき、サマンサは恨みがましい目で相手を見る。マリアは船首に立てられた柵に頬杖をつきながら笑った。それはけして嫌な笑い方ではなかった。むしろ、見る者を惹きつけるような笑みだ。いたずらっ子のようなその表情と、美しく整った容姿とのギャップに眩暈を感じながら、サマンサは赤くなった頬を隠すように、マリアから顔を逸らす。

 

「本当に、貴方という人は」
「ああ、悪い。お前の反応が可愛いから、ついからかってしまった」

 

 サマンサは「もう……」と呟き、黙り込んでしまった。だが、それは機嫌を損ねたからではなく、単純にマリアの言葉に照れたからだろう。髪の合間から覗いている耳が赤い。マリアはそれに気づいていたがあえて触れず、話題を戻す。

 

「それで、その手記には何を?」
「……この旅の日記を書いているのです」

 

 観念したのかそう言って、サマンサはマリアに手帳を渡した。マリアはそれを受け取りぱらぱらと中身を見る。ルイーダの酒場で出会った日から始まった日記は、その日あった出来事だけでなく、通った道のり、倒した魔物、道中での些細な会話までしっかり書き残されていた。その上、全ての事柄はマリアを中心に書かれている。今日の日付までざっと目を通し終えると、マリアは手帳を返した。

 

「日記というよりも記録だな。何の意味があるんだ」
「貴方の偉業を伝えるのに必要なんですよ」

 

 その言葉を聞き、マリアはフッと笑う。

 

「偉業、な。ようやくオーブを一つ手に入れた所だというのに、随分と気が早い」
「いいえ、早くなんてありません。今この時から準備をしないと間に合いませんから」

 

 サマンサは手帳をぎゅっと抱きしめる。そして、船が進む先へ視線を向けた。そこにあるのは、きらきらと輝く星々。遥か過去も、遥か未来も、変わらずに輝き続けるであろうそれらを見つめながら、噛み締めるように言葉を吐き出す。

 

「この記録は、何百年、何千年も残り貴方の子孫に受け継がれますわ」

 

 そう語るサマンサの瞳には、夜空の星がキラキラと輝いていた。それをじっと見つめながら、マリアは目を細める。

 

「サマンサは随分と先のことを見ているんだな」
「あら。私は貴方のことしか見ていないですよ、マリア」

 

 不意に視線をマリアに向け、そう告げる。と、マリアは一瞬呆けたような顔をした後、顔を真っ赤にさせる。そのまま柵に顔を埋めて、小さく唸った。

 

「お、お前な……」
「さっきの仕返しです」

 

 くすくすと笑うサマンサ。そんな彼女たちを、月は静かに照らしていた。


◆◆◆

 

 手帳を胸に抱いたまま、俺は目の前の城を見上げた。美しい白亜の城も、度重なる魔物の侵攻のせいか、どこかくすんで見える。ここに来る前に立ち寄った町でもそうだ。人々は明るく振る舞いながらも、その内にある不安を隠しきれない。ローラ姫が誘拐され、半年。彼らは彼女を助け、この世に光を取り戻す勇者を求めていた。

 

 ――遥か昔、神から授かりし光の玉を以て魔物を封じた、勇者ロト。

 

 誰しもが子供の頃に寝物語として親から聞かされた物語。その末裔が、俺だった。それを証明するものは、この胸に抱いた手帳のみ。大魔導師サマンサによって書かれたこの手帳には、勇者が女性であるという衝撃的な事実と共に、彼女が辿った道筋が克明に記録されている。お伽噺になる程の年月を経ながらも、劣化する気配のないマジックアイテム。それの所有こそが、俺が勇者ロト――マリアの子孫である証。

 

『どのような試練であれ、貴方は必ず乗り越えられる。誇りを持ちなさい』

 

 手記の一節を思い返せば、自然と体に力が漲った。ゆっくりと息を吸い込み、背筋を伸ばす。

 

 そして偉大な先祖の名を汚すことのないよう、堂々と城の門を潜った。

 

◆◆◆

 

 大魔導師サマンサによって書かれた勇者ロトの記録。そしてそれは後にアレフガルド周辺の大陸を開拓するバルテルミー・アレフガルドが、自身がロトである証として持ち込んだものである。現在では原本はロトの装備と共に保管されており、ローレシア、サマルトリア、ムーンブルクの三国にその写本が代々伝わっている。写本を読むことは直系の子孫にしか許されず、高名な学者すらも読むことを許されない。故に、ロトの勇者が実は女性であったことは、王族のみ知りうる最大級の秘匿とされてる。

 

「……勇者ロトが女だったって知った時はびっくりしたな」

 

 旅の道中。野営の準備を整え、焚火を囲みながら明日の行程について話し終えた直後。ローレシアの王子、ローランが何気なくそう呟く。その手には大魔導師サマンサ直筆のロトの手記が握られていた。ロトの装備を手に入れた際に共にあったものだ。何百年も前の手記であるにも関わらず、劣化する気配はなく小奇麗だ。

 

「そうだね。皆、勇者は男だって思いこんでいるし」

 

サマルトリアの王子、サマルは苦笑しながら頷いた。火が弱くなったのを見計らい、小枝を焚火の中に放り込むと、ぱちぱちと爆ぜながら火の勢いを取り戻す。串刺しにされた魚の表面を火が撫でるように焼いていく。

 

「けれど、伝説通りの相当な美形で強い方だったのは事実なんでしょう? そっちの方が驚きよ。大抵の英雄譚は脚色や美化されるものなのだけれど」

 

 ムーンブルクの王女、ムーンはそう言葉を返しながら荷物の整理を行い、補充が必要なアイテムの確認をしていた。薬草や毒消し草の数を数え、足りないものは頭に刻み込んでいく。紙は高価だ。城での暮らしと違い、旅の中では資金を切り詰める必要がある。

 

「まあ、手記に記された時点で美化されてる可能性も否定できないけれどね。大魔導師サマンサは、相当なロトのファンだったみたいだし」
「ファンというか信者? 強烈だよな、手記の最後の一節」

 

 ローランは口元を緩めながら手元の手帳を捲り、最後のページを開く。

 

「――以上が旅の行程である。私がわざわざ書き記さずとも、彼女の偉業は語り継がれていくだろう。しかし、この手記の目的はそこにはない。私はただ、これを読む貴方の身体に、勇敢な彼女の血が流れていることを知ってほしいのだ。そして自信を持って欲しい。どのような試練であれ、貴方は必ず乗り越えられる。誇りを持ちなさい」


◆◆◆


「この手記を親愛なるマリア、そして彼女の子孫に捧ぐ」

 

 ローランがそう締めくくると、マリアは小さく息を吐いて酒のグラスを傾けた。

 

 とある世界の酒場の一角。マリアは子孫であるローラン・ローレシア、バルテルミー・アレフガルドと共に酒を酌み交わしていた。その際にマリアが何気なく「後の世に私の行いはどのように伝わっているんだ」と尋ねた所、サマンサの手記についての話が出て来たのだ。マリアは手記について記憶していたものの、まさか本当に未来永劫伝わっているとは思わず、感嘆する。

 

「サマンサの奴、その為に手記を書いていたのか……」
「実際、この手記に助けられた子孫は多いですよ。ロトの血族以外は原本の手記を開くことも出来ませんから、血の証明になりますし。……バルもアレフガルドのお城行くときに使ったんだろ?」

 

 黙々とグラスを傾けていたバルテルミーはローランの言葉を肯定するように頷く。

 

「役に立っているなら良いが。しかし、そんな文章を添えていたとはな」

 

 アレフガルドに戻ったらからかってやろう、と笑みを浮かべてマリアは度数の高い酒を煽る。その傍には酒の空瓶が高く積み上げられていた。ザルを通り越してワクだ。どれほど飲んでも顔色一つ変えないマリアは、バーテンに酒のおかわりを要求しつつ、ローランの方を見てニヤリと笑った。

 

「それで? 実際に会ってみてどうだった。私は手記通りの人間だったか」
「はい。手記の通り、類い稀なイケメンで、剣士としても魔法の使い手としても優秀で非の打ちどころのない超人でした」

 

 はは、とマリアは快活に笑う。

 

「褒めても何も出ないぞ」
「後は良い男性を見つけて結婚して頂けたら完璧ですね」

 

 バルテルミーが賛同するように頷くと、マリアの笑みが引き攣った。

 

「またその話か。そもそも私を嫁に迎える奇特な奴がいる訳ないだろう」
「……マリア様。その奇特な奴がいなければ俺達生まれてません」

 

 バルテルミーもうんうんと頷く。マリアは溜息をつくと、深く椅子の背に凭れた。

 

「分からんぞ。お前たちは他の平行世界の私の子孫かもしれん」
「だから、手記の存在が貴方の子孫である証拠でしょう」

 

 マリアは小さく唸る。ローランは今日こそは逃がすまいと真剣な表情で彼女を見つめた。こうしたやり取りは珍しいことではなかった。他人ならば煩いの一言で一蹴出来るが、何分相手は子孫で自分の存亡が掛かっているだけに必死だ。マリアはローランの視線に耐えかねて、バーテンから差し出されたグラスの酒を掴む。

 

「その話はまた今度、な」
「いいえ、今日こそはここではっきりとして頂――んぐっ!?」

 

 ローランの胸倉を掴んで口に酒を流し込む。ぼんっ、という擬音が聞こえてきそうなほど、瞬く間に顔が真っ赤になり、ローランはカウンターに倒れ込む。少しの間を置いて、ローランの穏やかな寝息が聞こえてきた。

 

「酒に弱くて助かった。バルテルミー、後はよろしく」

 

 カウンターに三人分の御代を置くと、バルテルミーはゆっくりと頷いた。マリアはマイペースに酒を飲み続ける彼を見て少し笑うと、癖のついた黒髪をくしゃりと撫でて酒場を出て行く。酒で火照った体に、夜風が気持ち良い。マリアはキメラの翼を取り出し、空を見上げる。

 

「……偶にはサマンサに何かプレゼントを買って来てやるか」

 

 ぽつりとそう呟いて、マリアは無造作にキメラの翼を放り投げる。翼に封じられた転移呪文が解き放たれ、マリアの姿が掻き消え。


 誰もいない路地を、月だけが変わらず照らし続けていた。








3→1→2→クロスオーバー時空の順になっております。

時間が経っても変わらないものを表現したかったのですが、あんまり書けてません……

バルテルミー、ローラン、マリアのロト三人組は書いていて楽しかったです。